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2009年11月07日 社会
http://www.okinawatimes.co.jp/news/2009-11-07-M_1-031-1_001.html?PSID=701de5166a4843f4edb706a8eb3d5a1e
拝啓 鳩山首相殿 岐路・基地オキナワ
連日報道される米軍普天間飛行場の移設問題、閣僚たちの相次ぐ県内移設容認発言―。基地の固定化を危ぶむ県民が県民大会を前に鳩山由紀夫首相への直訴を始めた。「嘉手納統合案は空気の詰まった風船に、さらに空気を吹き込むようなものです」「県民の声を聞いてほしい」。首相へあてた手紙には、それぞれの戦争、基地被害体験がつづられている。
統合案は無知 心踏みにじる
元教諭の新里律子さん(78)
【沖縄】「嘉手納基地統合案は住民を無視した提案です」―。沖縄戦と石川ジェット機墜落事故を体験した元教諭の新里律子さん(78)=恩納村=は8日の県民大会を前に、基地被害を訴える手紙を鳩山首相に送った。手紙では、嘉手納統合案を「空気のいっぱい詰まった風船に、空気をさらに吹き込むようなもの」と批判。首相に「破裂するのは明らかなのに、空気を吹き込む者はいないでしょう」と訴えた。県民大会にも参加、「基地反対の気持ちを訴える機会にしたい」と期待する。
沖縄戦当時は「戦争に勝つこと」を信じてやまなかった新里さん。しかし戦争で父親と兄、妹を亡くした。「平和でなければ、幸せに暮らすことはできない」と深く気付かされた。
しかし、教師になっていた1959年6月30日、石川ジェット機事故に遭遇。黒こげになって泣き叫ぶ児童の姿や破壊された校舎を目の当たりにした。惨事は嘉手納所属の米軍戦闘機が引き起こしたものだった。
「期待していた平和にも裏切られた。基地がある限り、住民の生命は、絶えず危険にさらされ続ける」
嘉手納に過重な負担を強いる嘉手納統合案。「騒音や墜落の恐怖におびえる地域住民の気持ちを逆なでする、無知な提案だ」。平和の願いを踏みにじられた思いがした。
「沖縄の基地問題は、決して一地域だけのものではない。日本全体の問題として考えてもらうためにも、県民大会に立ち基地反対の気持ちを表したい」と話す。(天久仁)
新里律子さんの手紙(要約)
住民の立場で解決を
嘉手納統合案を聞いて怒りでいっぱいです。それは全く無知な提案で、そこに住んでいない人の言葉。統合案は空気いっぱいの風船に空気を送るようなもの。いつか破裂するのはだれの目にも明らかです。
基地があるため、沖縄の人たちは苦しんでいる。それは一目瞭然(りょうぜん)で、嘉手納統合案は沖縄の現状をまったく知らない人の発想です。
一般の県民が思いを訴える場は、8日に開かれるような大会しかない。その日はそれぞれ思いを持って集まることと思う。
鳩山総理の答弁や取り組みを見聞きした限り、従来の政権とは違い、沖縄住民の立場に立って基地問題を解決してくれると信じています。大きな政治の動きの中でぜひ沖縄の平和を実現してほしい。
故郷辺野古へ移設はやめて
名護在住の上間正敏さん(47)
【名護】「県民の声を聞いてほしい」―。名護市辺野古出身で、生まれつき手足が不自由な上間正敏さん(47)=同市東江=が、米軍普天間飛行場の県内移設をやめるよう鳩山首相に手紙を送った。辺野古で生まれ、宜野湾市で青年期を過ごし、基地の騒音や危険性を目の当たりにしてきた。「一人一人が、自分の生活を通した言葉で伝えれば必ず届く」と期待する。
上間さんは4〜15歳まで那覇市の障害児施設で生活。沖縄国際大学に通った4年間を含め14年間、普天間飛行場周辺で暮らし、騒音被害を痛感した。
7年前、研修で行ったベトナムの障害者施設で、枯れ葉剤の影響で苦しむ人たちの姿を目の当たりにした。ベトナム戦争時代、キャンプ・シュワブから毒ガスを積んでいるとみられるタンクローリーが、辺野古の集落内を走っていた光景を鮮明に覚えている。
「嘉手納などに運んでいたのではないか。戦争に直接加担はしていないが、米軍に土地を提供し、枯れ葉剤を積んだ飛行機がベトナムに飛んでいたと思うと、自分も間接的な加害者の一人だと罪の意識を感じる」
手紙には、親しくしていた近所の寝具店を営む女性(享年52)が、強盗目的で米兵にブロックで頭を殴られて殺害された事件も書き、大切な人を突然失った無念さもつづった。
県民大会には仲間と一緒に会場に足を運ぶ。「鳩山首相は県民の気持ちを聞くと言っている。その言葉を信じ、声を上げたい」と力を込めた。(新垣晃視)
上間正敏さんの手紙(要約)
辺野古を危険にしないで
私は、沖縄県名護市に住む47歳の者です。8月の選挙で「国民のための政治」を訴える鳩山総理に親しみを感じ、勇気をふりしぼって手紙を書きました。
総理にお願いしたいことは、宜野湾市の「普天間基地の辺野古移設案」の件です。辺野古(県内)への移設は絶対にやめてもらいたいということです。
私は、4歳から15歳まで那覇市の障害児施設で生活しました。年に3、4回家に帰省しても地域へのなじみも薄く、友達もいない。一人で外を眺めるぼくを、帰省するたびに励ましてくれる近所のおばさんがいました。幼い私の心のよりどころでもあったのです。
1974年10月23日、そのおばさんが、強盗目的で店に入ってきた米兵に頭を殴られて殺されました。私は12歳で、遺影の前で線香を握りしめて泣き崩れたことを鮮明に覚えています。米軍は私の大切な人を奪ったのです。
ベトナム戦争の最中で、辺野古の街は戦場に向かう米兵と、ベトナムで人を殺した米兵が入り混じった状態でした。尋常でない心理状態の人間が街を歩いているわけで、いつでも街は危険な状態だったのです。
私は、鳩山総理を信じています。11月中旬には、オバマ大統領が来日すると報道されています。どうか、対等な関係で建設的な会談を期待しています。
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